当時ヨーロッパの大国であったオーストリアとハンガリーの両帝国を支配したハプスブルグ家、その最後の皇帝であったフランツ.ヨーゼフ。彼はウイーン市街を取り囲む城壁を取り壊し、現在に至る環状通り(リング.シュトラーセ)を始め,その通りに面して幾多の壮大な建築物を建設した。現代日本でもそうだが、このような大建築は財政的な危機に陥るキッカケであり、ハプスブルグ家にとっても例外ではなかった。リング通り内の栄華に反して、その周辺では貧困、病魔、売春と体制批判が渦巻き、第1次世界大戦での敗戦と共に帝国は滅びてしまう。
 
 この19世紀の世紀末にヨーロッパ各国で生まれた新しい芸術の波が、所謂「アール.ヌーボー」であり、古典的絵画に対する近代派といえる。「アール.ヌーボー」はフランス、ドイツでは「ユーゲント.シュティール」、オーストリアでは「ウイーン分離派」(ゼツェシオン)と呼ばれた。その象徴が「金色の玉葱」と称される天井のドームを持つウイーン分離派の展示館であった。“あの絵“の画家は1897年に結成された「分離派」の会長となり、1918年帝国の崩壊と前後して、55歳と言う若さで脳卒中を起こし,当時猛威を振るった流行性感冒に肺炎を併発して死亡する。
 
 皆様 もう此処まで読まなくても御分かりでしょう。その画家とは、グスタフ.クリムト。そしてその絵とは、「接吻」(Der Kuβ)です。

絶壁に取り囲まれた花園で、黄金色の衣をまとった男女が接吻する姿が描かれている。後姿で無表情な横顔の男性に対して、女性は恍惚そのものの表情で描かれ、暗闇の背景にも黄金が散りばめられている。まさしく世紀末のウイーンの退廃と人間の性を象徴する、彼の代表作品だろう。服の模様は性的な象徴であると言う説もある。

 彼の人生そのものは、リング通りに面した劇場,美術館などの装飾壁画制作を依頼され順調に名声を上げ続けた時代に続き、ウイーン大学の壁画制作に伴うゴタゴタ、その後一切の公的活動に参加せず個人的な製作に励んだなど、常に論争に巻き込まれた紆余曲折に富んだものであった。彼の作品についての評価は人により分かれるであろうが,その作品には何れもかなりの圧迫感がある。その圧迫感が心地よいのかも知れない。人間の本質と言うものを追求した結果かもしれない。

 もう一つ、彼の卒業したウイーン工芸学校には、彼のアドルフ。ヒットラーも受験したことだ。2年続けて不合格になり失意のままに繁栄の都を後にせざるを得なかった彼が、後日オーストリー併合と言う挙に出たのもこの辺りの伏線かもしれなくなかなか興味のあることです。

 誰しもお気に入りのものがある。昔のビールの宣伝ではないが、強く感銘を受けるものが多いと人生は豊かになるだろう。これからも感動を忘れないように心がけたい。

 2002年の年賀状にも「今後も毎日が新しい発見でありますように」と書かせてもらった。
(終わり)

戻る

当時「世界名画の旅」という特集記事が、朝日新聞日曜版に連載されていた。ご記憶の方も多いかと思う。
 新聞記者が世界各地の名画を訪ねる旅をして、その絵を巡る種々のエピソードを紹介するものであった。この連載はその後単行本化され、今読み返して見ると、その記事は857月に掲載されていた。山から帰ると、私は早速あの絵に関する情報収集に駆け回った。調べるにつれだんだんと興味が湧いてきた。

その絵は古い宮殿の、高い天井を持つ広大な部屋に掲げられていた。予想以上に大きいな、と言うのが正直な感想で、写真で見た通り黄金色に輝き、まさしく妖しいまでに官能的な匂いを発散させていた。最初の出会いから4年の月日が経っていた。

その絵との出会いは全くの偶然であった。今から15年以上前の爺ケ岳山行、京都駅から新幹線に乗り込んでほっとした時、親友が何気なく座席の横に置いていた新聞の写真に思わず眼が引き寄せられた。それが私とこの絵との、大げさに言えば運命的な出会いであった。

“忘れえぬ絵”―人は何に共感するのか?ー

inserted by FC2 system