島崎藤村の足跡を辿る「馬籠と、小諸で考えた」-その2
今年の夏休みに出掛けた信州小諸城址で、「島崎藤村」生涯を振り返って見ました。その1「馬籠」の続編です。

前号でも申しましたが、島崎藤村(本名:春樹)は明治5年(1872)長野県木曽郡山口村[@]字馬籠で父正樹、母ぬいの四男として出生しました。
生家は馬籠宿の本陣・庄屋を兼ねる旧家でした。
馬籠は坂道の宿場町で、旧本陣に藤村記念館が建てられています。
藤村は小学生の時に上京し、泰明小学校を卒業後、明治14年9月共立学校[A]を経て翌年9月、明治学院普通科本科[B]に入学しました。

卒業後の
明治25年(20歳)9月から、明治女学校に英文科教師として奉職します。教え子の佐藤輔子(すけこ)との恋愛事件[C]で悩み、261月に明治女学院を辞職しました。

その後、東北学院(仙台市)教師を経て、明治32年(1899)4月、旧師木村に招かれ[D]、「小諸義塾」に英語・国語教師として赴任しました[E]ここで彼は中学教師として6年間(1899〜1905:明治32年〜38年)の小諸生活を送ります。


島崎藤村

小諸城址突き当たりが三の門

「懐古園の案内パンフレット」[L]より

ところで、小諸義塾とはどのような学校だったのでしょうか?
それは、明治26年に木村熊二[F]が創設した私塾でした。その後、中学校に発展しました。建物自体は、現在、JR小諸駅の裏手の「小諸義塾記念館」として移転復元[G]されています。
アーリーアメリカンと土蔵様式のマッチした、なかなか素敵な建物です。

この私立学校では、自由主義的で、人物養成を目指す独特な中等教育[H]が目指された、と言われています。藤村はここ小諸で冬子と結婚し、翌年5月長女 緑が誕生します。

彼自身のそれまでの活動は、北村透谷[I]らによる1893年(明治26年)の「文学界」の創刊に参加し、1897(明治30年)に、明治時代の代表的浪漫詩集、「若菜集」を刊行し、名声を高めていました。
小諸時代も、数多くの著作[J]を発表していますが、詩人としての限界に直面し、小説を試みるようになったようです

1905年(明治38年)、『破戒』[K]を完成し、小説で身を立てる覚悟で小諸義塾を退職し、上京します。しかし現実は厳しく、困窮のために三人の娘をあいついで亡くしてもいます。

1908年、東京朝日新聞に長編第二作『春』を、翌々年には第三長編『家』と、自伝的な大作を次々と発表し小説家としての地歩を固めてゆきますが、産褥熱で妻も急死しています。

藤村の小諸時代を示す建造物が現在でも数多く見られますが、小諸城を紹介するのに止めます。

小諸城の本丸と二の丸址は、1880年(明治13年)に懐古園(かいこえん)として保存されました。

明治時代、三の丸に信越本線(現しなの鉄道[M])が敷設されたので、旧小諸城の大手門(四の門)は線路の向こう側[N]にあり、懐古園の入り口には三の門が建っています。
本当に駅の直ぐ裏手で、国道や駅からは一段下がるので奇異な感覚に囚われます。

城と言えば普通、高台にあるとの固定観念[O]が抜けきれません。しかし、小諸城は平城ながら浅間山の裾地上の築城なので,
入り口での印象と異なり,千曲川を見下ろす南の眺望は山城の雰囲気です。
崩れやすい断崖で守られた堅固な要塞[P]であるのが良く分かります。


懐古園の案内図(パンフレットより)

懐古園から浅間山を望む

博物館屋上よりの展望
小諸を訪れた当日は、薄曇りでしたが暑くもなく気持ちの良い日でした。

この町は浅間山の裾野に有ります。
浅間山は、町の直ぐ裏に聳えていま
した。
お山は、北アルプスなどの遠くから眺めるより、
思いのほか低いのに吃驚。それにしても、何かしらゆったりとした気持ちにさせてくれる山であるのは間違いありません。

懐古園の博物館の屋根より眺めますと、浅間山が良く見えます。
山頂に近い西の肩より、かすかな噴煙を出していました。
雲と見紛う程の煙です。
その姿からは幾度も噴火して[Q]
火山灰を上げた姿は窺えませんでした。

南には千曲川が流れています。
火山の裾野に有りがちな地形で、
地面が深く裂けて河川となっているのです。


八ヶ岳の辺りも同様の地形ですが、ここは標高が高い分だけ
山が近くに見えます。八ヶ岳の麓からは、山頂は遥か遠くです。
園内には、「千曲川旅情の歌」の文学碑、藤村記念館、若山牧水歌碑などがありました。

「小諸市立藤村記念館」では,直筆の原稿や藤村の作品などが展示されていました。

余りにも有名な、島崎藤村の詩。
あらためてその全編を読んでみると、
その響きのよさに驚かされました。
新鮮な気持ちが湧いてくるようでした。

小諸城址より千曲川

小諸市立藤村記念館
「小諸なる古城のほとり」
小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なす繁は萌えず
若草も籍くによしなし
しろがねの衾の岡日に
溶けて淡雪流る


あたゝかき光はあれど
野に満つる香も知らず
浅くのみ春は霞て
麦の色わづかに青し
旅人の群れはいくつか
畠中の道を急ぎぬ


暮れ行けば浅間も見えず

歌哀かなし佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む


彼は昭和18年(1943)脳溢血のため、71歳で亡くなりました。記念館にはその絶筆の原稿用紙が展示されていました。この原稿から作家の執筆に対する気迫が感じ取られました。

藤村は万人の認める
日本文学史上の大文学者です。真面目な性格らしく、人間としても真摯に生きたのでしょう。
しかし、作品「新生」[R]に記されている弱い一面が、なお一層一個の人間(インテリ故?)として、私には興味が持たれるのです。


今回も目からウロコの旅でした。


「千曲川旅情のうた」の詩碑
参考文献: 「藤村記念館」資料
「小諸義塾記念館」パンフレット

[@] 山口村は現在は、岐阜県中津川市に編入されている。平成の市町村大合併で、県を越えた合併で話題となった。実際に地理的にも中津川圏内である。

[A]一時、芝の三田英学校に入学したが、直ぐに共和学校に転校した。在学中の1411月に父の死去に見舞われた。

[B] 在学中の明治216月、共立学校時代の恩師木村熊二により、高輪台教会で洗礼を受けている。

[C] 実際には、深い男女関係と言ったものではなく、恋愛感情が高ぶって授業に集中できなかった程度であるとされる。女生徒は翌年卒業と共に結婚したが、その後まもなく病死した。

[D]木村が、小諸義塾の規模を拡大し発展させようとしていた時期に、たまたま小諸を訪れた藤村に教師就任を依頼した、とされる。

[E]授業中に仏陀の生涯や生きかたを述べ、小説家として生きようとする自らの決意を語ったりした、といわれる。明治38年(19053月に退職するまで6年間小諸で過ごした。

[F]明治初年、アメリカに渡り12年間留学した。近代の西欧文化を体験した教育者で、牧師でもあった。臼田の教会で伝道活動と地域の教育活動に携わっていた時、(小諸に中等教育の場を作ろうと思っていた)小山太郎らに説得され、私塾である「小諸義塾」を創設した。

[G]本館の建物は義塾閉鎖後、小諸商工学校、小諸幼稚園、さらに田村源一郎医師(木村友人)が引き取り、病棟として移築した。平成6年、市に寄贈され、小諸義塾記念館として移転復元された。

[H]生徒は(当時の)高等小学校を卒業し一層の向学心を持った近郷の青年達で、遠隔の者には寄宿舎を与え寝食を共にしたという。学校には、町当局や有志、また郡会からの積極的な支援があった。しかし、小諸市の商業学校構想と共に義塾に対する町費補助が打ち切られ、また日清日露戦争を契機とした自由主義的な教育と国家的教育制度の乖離のため、明治39年に廃校となった。

[I] 明治元:1868〜明治27:1894)神奈川県小田原市生まれ。明治21年、大恋愛の末結婚。「厭世詩家と女性」で、恋愛は人世の秘鑰なり、恋愛ありて後人世ありと記した。島崎藤村をはじめとする、多くの若者を驚嘆させ魅了した。理想主義に走り、理想と現実の狭間で悩み、自殺した。
[J]
『落梅集』、『雲』、『千曲川のスケッチ』、『旧主人』など。また『破戒』も起稿された。『落梅集』の中に有名な『椰子の実』がある。海岸で椰子の実を拾ったエピソードを菊池寛から聞き、書いたとされる。昭和11年に大中寅二が作曲し、広く愛唱されている。
[K]翌明治39年、妻の実家から借りた金で同作を自費出版し、当時として破格の1500部を売りきった由。

[L]この書は、徳川家達(徳川宗家の相続者。貴族院議長、日本赤十字社長などを歴任した。)の筆。その扇額は三の門に掲げられている。

[M]旧信越本線は、長野新幹線の開通と共に碓氷峠が廃線となり、軽井沢−篠ノ井間が第3セクターの「しなの鉄道」となった。

[N]大手門へ行く際は、鉄道の地下道をくぐって行く。

[O]城下町より低い城を「穴城」というらしい。全国的にも珍しい。

[P]通常、築城術上は、石垣を組み、堀に水を貯めて敵の侵入を防ぐが、小諸城は浅間山の火山灰台地の丘と切れ込んだ深い谷を利用して造られている。

[Q]1783年(天明三年)の噴火による死者は、85日に北麓で発生した岩なだれと、吾妻川を下った熱泥流による1400人余と言われる。 明治以降も10回以上の噴火あり。山頂火口は北側が低いから火砕流・岩なだれ・泥流などによる災害の脅威は、群馬県側に大きいとされる。

[R]大正75月から東京朝日新聞に連載された。大正2年、藤村は逃げるようにしてフランスへ旅立った。妻冬子の死後、手伝いにきていた姪のこま子との不倫関係を清算しようとしてとされる。「新生」ではその間の経緯を描いている。

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