島崎藤村の足跡を辿る

馬籠と、小諸で考えた」-その1

今年の9月の中旬、遅れ馳せながらの夏休みで信州を旅しました。
今まで行きたかったが行けなかった場所―木曽谷の馬籠宿と佐久地方の小諸城址―も訪ねてみました。
結果的に、2個所とも
明治の文豪「島崎藤村」所縁の地でした。この機会に歴史の一端を振り返って見ました。


余りにも有名な、島崎藤村の詩、「初恋」。

その名前は、中学生の頃にはじめて知りました。
よほどこの詩に感銘を受けていられたのでしょうか?
ある国語の教師が、授業中に朗々と詠まれていたのが、妙に記憶に残っておりました。


1「初恋」の詩[@]

「まだあげ初()めし前髪(まへがみ)の

林檎のもとに見えしとき

前にさしたる花櫛(はなぐし)の

花ある君とおもひけり

やさしく白きてをのべて

林檎をわれにあたへしは

薄紅(うすくれない)の秋の実()に

ひとこひ初()めしはじめなり」


この詩は、藤村の第1詩集「若菜集」[A]におさめられたもので、
この成功により彼は一躍近代浪漫主義の代表詩人としての歩みを踏み出した、とされます。

今の世の中では想像も出来ないような、初心(うぶ)な心持ちを謳った詩ですネ。
しかし青春期の複雑な心を瑞々い響きで、しかも簡明に表現したゆえ、
後世に至っても輝きを失わない素晴らしい詩だと思います。


島崎藤村は、明治5年(1872年)3月25日(旧暦2月17日)に生まれました。
生まれは中山道「馬籠」の旧本陣でした。


  馬籠を訪れた当日は、晴れて気持ちの良い日でした。
中央道を中津川ICで下り、国道19号線を木曽福島(北)方向に向いますと、
約10分ほどで旧中山道への分かれ道があります。
「馬籠、妻籠」方面と大きな標識があります。


2  馬籠、妻籠方面地図(「Mapion」より)

直ぐに左に入るのですが、かなり細い道なので、
思わず広い直進の道に行きそうになります。
九十九折りの道を、どんどんと高度を上げて登ります。

「本当に道を間違えていないだろうか?」

と、不安になる頃、やがて小高い平地に行き当たります。
其処が「馬籠」の宿場でした。


駐車場に車を停めて、町に向います。
面白いことに、ここは
坂道に設けられた宿場です。
街道は北から南に緩く傾斜しています。
木曽
11宿[B]のなかで最も南にあり、唯一山に挟まれていない宿でもあるようです。


3馬籠の宿の解説版

街道裏の直ぐ東は急な崖になり、遠く恵那の山々が見えています。
石垣の上に家が建てられ、遥か遠くに中津川の街や木曽川が眺められます。
通り
には敷石が敷き詰められ、両側に昔ながらの建物が立ち並び、
江戸時代にタイムスリップしたような不思議な感覚に囚われます。


シーズンオフでしかも平日ですから空いていると予想していましたが、
吃驚するほどの大勢の人が歩かれていました。


4馬籠の宿場町

北の入り口から入り坂を下って行きますと、右手に藤村記念館がありました。
島崎藤村の生家の、旧馬籠本陣の跡地に建てられています。


この記念館は、昭和27年、藤村の長男楠雄氏から約5000点の資料の寄贈を受けて[C]
藤村文庫(展示室が)完成し、藤村記念館として開館したとのことです。
その前身に藤村堂[D]という建物がありましたが、その後、
馬籠の青壮年の大いなる熱意が源となって、[E]記念館が作られたそうです。


記念堂の建物は、真ん中に旧本陣の礎石を配した広場が有り、
正門の冠木門、黒の板塀、白亜の障壁で囲まれています。
黒、白、朱が素晴らしいバランスで配置されています。

正面に置かれた扁額には、朱の文字でこう書かれています。

5冠木門の扁額

「血につながるふるさと

心につながるふるさと

言葉につながるふるさと」


藤村自身は若い頃に故郷を離れ、東京、仙台、小諸、フランス留学、神奈川大磯と
住居を移していますが、故郷への思い入れは強く、しばしば帰郷していたようです。
この額の言葉からもその思いが伝わってきます。


本陣の建物自体は明治28年の大火で殆ど消失しましたが、祖父母の隠居所だけが唯一残ったようです。
その二階に藤村が少年時代を過ごした部屋[F]が残っています。
また、2つの新しい展示室やふるさとの部屋など、見所が一杯です。

当日は丁度、企画展「藤村詩の風景」が開催されており、貴重な色々の資料に目を通せました。

6企画展

ここ馬籠はその宿場町としての雰囲気そのものも心引かれる所ですが、
その他、馬籠脇本陣史料館、清水屋資料館といった、藤村ゆかりの施設が多くみられます。
歴史小説の傑作『夜明け前』
[G]の舞台と島崎文学のルーツをしめす貴重な資料が展示されていました。


「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨伝いに行く崖の道であり、
あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、
あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。」 
――島崎藤村『夜明け前』

7藤村記念館入場券


彼が座右の銘とした言葉、「簡素」が描かれた入場券です。

文学碑には太陽の言葉[H]が彫られています。

誰でもが太陽であり得る。
私たちの急務は、たゞたゞ眼前の太陽を追ひかけることではなくて、
自分等の中に高く太陽をかかげることだ。

7藤村堂の座像






















なかなかいい言葉です。感激しました。

「地に足を着けて徒に青い鳥を求めてはいけません。」

でしょうか?
今回も本当に目から鱗の旅でした。
       
参考文献: 「藤村記念館」資料


[@] 藤村記念館(馬篭)企画展「藤村氏の風景」パンフレットより転載。

[A]明治30年、発表。

[B]木曽11宿=馬籠、妻籠、三留野、野尻[下四宿]、須原、上松、福島[中三宿]、宮ノ越、薮原、奈良井、 贄川(にえがわ)[上四宿]

[C] 長野県内の小、中、高校生、教員よりの寄付も受けた。

[D]昭和22年、「文豪藤村を顕彰するものを造りたい。」と、ふるさと友の会が結成された。東京工大、谷口吉郎博士が設計した奈良朝様式を取り入れた廻廊式の建物で、勤労奉仕により建った。藤村の年譜などが展示されている。

[E]その後、昭和25年に財団法人藤村記念郷が設立された。その設立に、「私たち藤村と血縁あるもの、あるいは郷土を同じくするものは、藤村の生涯の所産が、わが国の文化財として久遠の生命を保つのみでは満足することができない。ここに同士相寄って藤村出生の地を選び、人間藤村の生涯の記念となるものを保存して、後代の人々のために計る」という気宇壮大なものであった。

[F] 藤村の本名は島崎春樹。明治14年遊学のため上京した。それまでの間、平田派の国学者であった父から、四書五経の素読を受けたと言う。「夜明け前」や童話集の中にもたびたび登場する、という。県指定文化財である。
[G] 昭和4年から10年まで、「中央公論」に連載された。父をモデルとして明治維新前後を描いた。

[H] 随想集『春を待ちつつ』所収「太陽のことば」より

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