パートナー、宮本の登攀記録 | その2 |
10月3日(金) チョラツェ湖畔のキャンプ適地で幕営。当初のロブチェイーストからここで高度順応も行う旨、決定。 9/27の入山以来、榊原はタバコ、宮本はディンボチェ4300mまでビールを欠かさず、おおむね快調なBC入り。 10月6日(月) チョラツェ岩峰群の下見に出発。モレーンを登って5400mの雪線直下にHC設営。 10月7日(火) ガス濃く、7時過ぎにHC出発。 タウツェとチョラツェのコル5700mを目指して登高。 フリーで20-30mの3級ミックス圧雪氷壁を登ってロープをFIX。 その上は傾斜が50-60度のヒマラヤヒダのラッセル。 9:30頃コルに到着。 稜線のきのこ雪を払ってゴーキョ側を見下ろすと、1000m以上切れ落ちるナイフリッジだった。 小休止後20mの3級の壁をフリーで登高。上部は不安定な雪質の雪稜となり、スタカットで登攀開始。2P目の斜度60度の雪壁(40m)は雪団子となり,ステップが崩れひやっとする。 雪稜を水平移動し、2つ目の岩塔(40m?)の基部に辿り着く。 前のピッチをリードしたMは順応不足のため消耗し肩で息。 榊原は当然のように追い越してリードにかかる。 ナッツで中間支点を取り最上部にさしかかった所で暫く考え、左のオオガバ?に手をかけた瞬間、上の大岩が徐々に動き出した。 やがて榊原の乗る大岩にまで伝達し、岩塔の連鎖崩壊。 榊原はセットした支点とともに宙に舞い、悲鳴と地鳴りが響く。20mくらい落ちてバウンドした。 宮本の眼前に落下してきた大型冷蔵庫大の岩はかろうじて右によけたが、小落石で左肩、背面を打撲し、衝撃で鼻部を強打し鼻出血した。ロープは1本切断。残った1本をFIXして救出に向かった。 榊原は45-50度の雪壁に転落しており、大岩が削った穴で止まったようだった。意識は明瞭だったが、左手開放骨折、左大腿の変形あり。 榊原の自力下山、宮本単独での救出下山は不可能で、ヘリでの搬出を宮本に依頼した。 宮本は切れたロープでHCまで下降し、衛星携帯電話で日本に連絡をとる。カトマンズには通じず止む無く走って下山。 13時半ごろBCに降り、メッセンジャーを電話のあるタンボチェ村へ走らせた。 夕方になると霧雨となり、5000mでは降雪が案じられ、眠れぬ夜を過ごした。 |
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10月8日(水) 9時頃 メラピークに登るはずの林(カランクルン)がヘリで到着し、宮本も同乗して現場に案内した。ヘリから榊原を発見したが、動きもなく瀕死状態であると思われた。 「この高度でのピックアップは不可能」とパイロットは言った。BCにてブルースカイよりヒマラヤレスキューサービスに出動依頼。悪天でヘリは飛ばず。林は地元のシェルパと装備をかき集め、アイランドピーク隊の杉山、佐々木両氏も合流、待機した。 宮本はBCより防寒装備、飲食料を持って出発。ナイフリッジをソロシステムで登攀して18時頃、榊原に合流したが死亡を確認。死後硬直はなはだしく、事故後短時間での死亡と思われた。20時半頃HC帰幕。HCは雪崩の危険大で、夜どうしの降雪で夜間は恐怖心を募らせた。 10月9日(木) 朝には30-40cmの積雪。いったん下山。その後も降雪続き、シェルパが回収に向かった時は腰迄の積雪で、雪崩の危険大にて搬出断念した。 10月10日(金) 後ろ髪を引かれつつ下山。 |
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