西播 小野アルプスハイキング、「紅山」&加西市 「SORAかさい」、鶉野飛行場跡地 ミュージアム 
単独行
2023年5月2日()     

14:20 登山口…14:50紅山山頂…15:20登山口…16:20「SORAかさい」16:55
 

岩倉口 駐車場
 
トイレもしっかりあります
今回、GWで3日(水曜日)が休みなので、火曜日午後から
フリーです。
以前から課題になっていた、小野アルプスの華山、
「紅山」

「此処の岩山尾根は、前回の縦走の際に下りをpassしました。
(迂回路の途中から合流すると思っていたら)完全に迂回でした」

今回は、岩山往復に挑戦です。

古い石碑、道標か?
 
野生動物進入禁止のゲート
今回は車です。
前回
(福知山に向かう際に立ち寄り)の挑戦は、
地図読み間違いで敢え無く空振りに!
「今回は念にも念を入れて、最短距離で往復しましょう」

昼からの出発ですが(前回縦走時と比べて、日は長くなってきた!)
時間は十分。余裕をもって登山口に向かいます。

道標1.
 
紅山・岩山登山口の道標
登山口には、10台くらい停めれそうな駐車場があります。
トイレも完備です。


おもむろに出かけます。女性が右の池端を奥に向かわれます。
Bergenは直進。
最初は林の中の湿った道ですが、直ぐにゲート(野生動物止め)

です。
「今日は天候の心配はないので、気分的に楽です」

紅山の岩稜線
 
横から眺める岩稜、傾斜は結構強い
やがて、展望台への、更に惣山方面への分岐路を分けますと、
岩倉峠への道と分かれます。
「紅山(べにやま) 182.8m」に向かう岩山尾根の始まりです。
下から見あげると、急傾斜の岩稜がせりあがってます。
「登れないコースではないが、注意すべきです」

岩はしっかりしているので、剥離などの心配はないです。
しかし、何分にも高度があり、露岩帯なので慎重に登ってゆきます。、
途中から傾斜がきつくなりますが、漸く山頂に到着。
 
紅山山頂から惣山と展望台(左)
 
下りで下から見上げます
頂から、本連山最高峰の「惣山 198.9m」山頂と展望台が
よく見えます。
しかし、向こうから見るほどには遠くない?


「イヤー、下りは慎重にです!滑ると(転落が)止まらないだろう(?!)」


と思うと、三点確保の手足が緊張する!
最後の緩傾斜帯に到着すると、ほっとします。

登山口の溜池、野生動植物が多いと!
  少しオーバーですが、長らくの念願が漸く叶いました。
と言っても、前回の縦走は、ちょっと前
(昨年11月)です。
最近は
(時間もないので!残された人生の時間!)
再訪は待て暫しなしです。

「このリッジの上り下りは、岩がしっかりしているので、
三点確保すれば安心です!
近くですから、暇を見つけてまた何度も来ましょう!」
 鶉野飛行場跡地、「Sora かさい」訪問    

「Sora かさい」、加西市の地域活性化拠点施設だ!
 
「姫路海軍航空隊、川西航空機の沿革」由来記
さて、登山口に戻ったものの、
「如何しようか?」

そうこうするうちに、見知らぬ
おばさんが話しかけてくる。
加古川から、旦那さんと一緒に写真撮影?に来られたようだ。

「今回は、紅山岩尾根の往復です。
前回の課題を解消してきました

自分ではごく普通な感覚なのに?妙に感心されてしまった。


今日は時間もあるし、加西の飛行場跡に行きましょう」
TVで報道していたが、立派な施設が出来たそうだ!
 
「Sora かさい」展示館
 
再現された、
「紫電改」実物大模型
 カーナビで探すが、上手く検索できない。
仕方ないので、あてずっぽうの方向で進んでゆくと、
漸く看板が出てきた。
それでも入り口を曲がり損ねたりして、大回りで現着。

「漸く着きました。
なかなか立派な建物です!
建物の脇に
『沿革碑』『安全祈願碑』
立派な石碑が建てられています」
 
「紫電改」操縦席
 
鶉野飛行場、復元模型
 中に入りますと、巨大な「紫電改」の実物大模型が2台、
床面と空中の2台、設置されています。

此処に姫路航空隊の飛行訓練場と航空機工場が置かれた
経緯が説明されています。

「此処で約510機の航空機が組み立てられた由です。
滑走路の延伸工事や航空機組み立てに、
地元の皆さんも協力されたそうです。
物資のない中、大変なご苦労だったと思います」


特攻隊も編成された由。、
 
加西市と
「紫電」、「紫電改」
 
復元模型の型式、米軍は「George」と呼んだらしい。
 メカニカルな説明と、歴史的な説明は、ブースを分けています。
後者は、個人情報面から写真撮影禁止です。

「帰ってから後で詳しく検証しようと考えていたので、
特攻隊の話は詳しく認識できませんでした」


また時間のある時に、ゆっくりと訪れましょう。
 
「紫電」
 
「紫電改」
 こんな形で「戦跡」を残して、語り続けるのは
平和維持のため、大切だと思います。

前大戦の誤った「歴史史観」を、もう一度見直す必要がありそうです。
 「沿革碑」から要約

航空機搭乗員養成のため、海軍は鶉野に「実用機練習航空隊」を設置。
ここには「海軍航空隊」と「川西航空機の戦闘機組み立て工場」を併用した、全国でも類稀な飛行場だった由。

 昭和18年10月1日、「姫路海軍航空隊」(初代指令 露木専治大佐)で訓練開始。
訓練生の支援のため、航空機整備、兵利、運用、主計、後悔、機関、通信、工作、兵器、砲術、医務の各課の兵隊が在籍。

一方、
「川西航空機」では、日夜過酷な条件のもと、社員、徴用工、挺身隊、学徒動員の献身的努力にて組み立てが進められた。
その数は終戦までに、
「紫電」、「紫電改」、510機に及んだ。

米軍の迎撃のために、
「筑波海軍航空隊」(五十嵐周正中佐)の「紫電改」が進駐してきて、
飛行場拡張に設営隊が担当、甲、乙種予科練生が北条・九會国民学校に分駐して労働に従事した。
その中の
「西宮空第14期甲種飛行予科練生」は、特殊潜航艇「海龍」特攻の血書志願を書き、「山口県柳井潜水学校」に向かった。
 昭和20年8月15日、戦争が終わりり、関係した兵隊たちはそれぞれの郷里に向かった。

その後、米軍により武装解除が行われ、開設以来1年10ヶ月の短い歴史を閉じた。
今の平和は、尊い人々の犠牲の下に成り立っている。戦争の惨禍を後世に残すための紀念碑が設立された。
  
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